「あすぼう(遊ぼう)」っていうと
「あすぼう」っていう。
「ばか」っていうと
「ばか」っていう。
「もうあすばない(遊ばない)」っていうと
「あすばない」っていう。
そうして、あとで、さみしくなって
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか。
いいえだれでも。
~こだまでしょうか~ 金子みすず詩集より
以前にテレビのCMで金子みすずの「こだまでしょうか」の詩文が流れ、評判となったことがあります。このCMを見たとき、一瞬「金子みすずさんの感性ほんとにすごい!」と感動しながら、「この詩を知っていたクリエーターはこの詩をいつからしっていたのだろうか!」とへんなことを考えていました。
私たちのセミナーで取り上げている「勇気づけ」の要素である「尊敬・信頼・感謝をより多く発信すること」にぴったりあてはまるからです。親子や夫婦、また職場の人間関係でトラブルが起きるのは、お互いが尊敬できない、信頼できない、感謝できないという思いから、相手を見下し、ときには軽蔑した言動を行うものですから、相手も同じように見下し軽蔑する態度で返してきます。その結果は無残なもの・・・・つまりお互いが傷をつけ合い、ネガティブな感情を蓄積させていくことになります。
親や上司は「私は尊敬されるべきだ。感謝されるべきだ」と思っているため、それをしない相手に不満と怒りを覚えて、さらに強い態度で相手を威嚇したり、怒りという感情をぶつけたりします。こうなると相互間の距離は広がるばかりで、深い溝ができ、歩み寄りもむつかしくなってきます。
こうした場合「親(上司)がわかってくれたら」「相手が私を尊敬してくれたら」ということばをよく聞きます。しかし、ほとんどの場合、これは不可能です。なぜなら、同じことを相手の人が望んでいるからです。
親や上司は「そんなことをしたら、子ども(部下)はつけあがるだろうし、わがままを言い始めるに決まってる。そんなことはできない」と言い、子どもや部下は、自分を認めてくれない親(上司)の言うことを聞いていたら、自分がつぶれてしまう」と、こだまのように返してきます。勝ち負けの競争社会では、いちいち相手に尊敬を示していたら、プライドが許せないばかりか、立場が維持できなくなり、相手のわがままや主張に巻き込まれてしまうことを恐れて、尊敬の行動をとろうとしないのです。しかし、実際はその反対で、尊敬の念を示すと相手のわがままを緩和し、有意義な会話が可能となるのです。
人は自分のすべてを理解して受け入れてたいせつにしてくれる人を、あたかも宝探しをするように人生をかけて探しています。「私のことをわかってほしい」とつぶやきながら。しかし、そんな理想の人を探して世界中旅をしても見つからないのです。自分を生んでくれたお母さん(かつては一心同体だった)さえ、私をわかってくれなかったのだから・・・・。他の人はわかってくれないのはあたりまえです。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、生まれたときからもう孤独が始まっていたのです。ということは、幸福そうに見える人でも、楽しそうに遊んでいる人でも、みんな「私をわかってくれ!」と心の中で叫びながら、孤独をまぎらわせているのです。
傾聴して受容して尊敬・信頼・感謝する行為は、理解の上に成り立つ関係です。そしてそのことばは、孤独感を一瞬のうちに解放する力をもっています。だからこそ、氷のように冷たくなった人間関係の心を溶かします。がんこ一徹なお父さんの心を癒すのです。そして奇跡のような笑顔があふれてきます。家族の中のひとりが、この魔法のカギをもつことができれば、家族のみんなに固く閉ざした幸せの宝庫の扉をあけることができます。
それはきせきでしょうか。いいえ、だれでも・・・・。